2021年(令和三年)9月20日の北國新聞朝刊に「途絶えた悪魔払い情報求む」の見出しで北安江・安江住吉神社で「悪魔払い」に使用した衣装や道具が見つかったとの記事が掲載されました。
幟旗には「大庭悪魔拂」と書かれており、「大庭」の読みや意味すら分からず地元の住民に情報提供を求めているとのことです。
記事では「悪魔払いは、弥彦婆とも呼ばれる厄払いの舞で、現在は市指定無形民俗文化財として大野地区に「山王悪魔払」が残るほか、金石地区にも伝わっている。」と紹介されています。
https://www.hokkoku.co.jp/articles/-/530082
(北國新聞DEGITAL)
悪魔払いという言葉が珍しかったせいかネット上でも話題になっていました。
金沢の「悪魔拂」「彌彦婆」について詳しく知りたいのであれば下記の資料が役立つはずです。 いずれも国立国会図書館デジタルコレクションへのリンクになります。
稿本金沢市史. 風俗編 第1 彌彦送 P177 コマ番号104
今回北安江で見つかった幟旗に書かれていた「大庭」の意味とは何なのか。興味が湧いてきました。
そこでまず石川県に関する辞書『加能郷土辞彙』で「大庭」の文字を調べてみると次の様に書かれています。
「オホバ 大場 河北郡井上庄に属する部落。(中略) 大庭村は大場村である。」
「オホバ 大庭→オホバ 大場。」
かつての大庭村は現在の金沢市大場町にあたります。 その大場町には「悪魔拂」に関する記録が見当たらないものの、隣の八田町の祭りでは明治の頃に伝わった「悪魔拂」が演じられており、金沢北部で唯一の伝承地と言われています。
しかし大場町の場所を地図で見ると北安江地区とは決して近い距離には思えません。はたして大場と北安江の間に繋がりは見つかるのでしょうか。
もし「大庭」が地名ではないとしたら他に何が考えられるでしょうか。流派や型式はどうでしょう。
ここから先に書くことは門外漢の根拠のない憶測になりますが・・・。
先に紹介した和田文次郎著の『郷史談叢』には次のような記述があります。
「此悪魔拂が大身の屋敷へ往けば通用の裏門から入って庭先で舞うけれど並の士屋敷へ往けば表門から入って式臺(台)先で舞うた」
つまり、禄の高い武士の屋敷ならば広い庭で舞を演じるが、並の広さの屋敷では玄関の式台先で演じたということです。
金石や大野地区で行われる悪魔拂では演者は長い弓や刀を振り回し、そのダイナミックな動きが見所のひとつです。しかしこれが狭い空間となれば演舞の所作や内容に制限が生じてしまいます。
もしかすると悪魔拂の演舞には場所の広さに応じて型の使い分けがあったのかもしれません。
広い庭などで行う本来の演舞を「大庭」と呼んでこれを正式としていたのではないでしょうか。
この場合の読みはオオニワが合っているように思えます。
勝手な想像を書いてみましたが、いずれ真相が判明し大庭悪魔拂が再興されることを望みます。
令和3年9月26日
その後、2021年10月13日付の北國新聞朝刊に「悪魔払い復活へ着々」と題する記事が掲載されました。
当時を知る住民の方からの証言や、古い写真を持参する方も現れ、神社関係者は「集まった情報をまとめて冊子にすることも検討している」とのこと。
ただし、記事は「大庭」の意味や読みについては触れていません。解明が待たれます。
https://www.hokkoku.co.jp/articles/-/550698 (北國新聞DEGITAL)