じつは前頁の報告を冒頭に持ってきたのには理由があります。
これから紹介する地蔵の由来には「有松の刑場から持ってきた」とする話が多いのです。それで「金澤上口刑法場探し」を読まずにこの章を読むと処刑場跡地が有松だと思われかねないと危惧したのです。
上口刑法場は国道の北側、現泉本町側であることは動かし難いと考えています。しかしここで疑問がわきます。なぜ地蔵の由来には有松に処刑場があったとする話が多いでしょうか?
泉本町と有松は国道を挟んで真逆の方角です。それなのに何故有松側とされたのでしょう。なにか理由がありそうです。
そこで私が考えた仮説は、「地蔵は有松側に並んでいた。」というものです。
刑場は加賀藩の所轄地です。庶民が勝手に地蔵を安置することができるとは思えません。そこで街道をまたいだ有松側に地蔵を置いたのです。通りの向こうから刑場の囚人と向き合うように地蔵が並んでいたのです。
やがて刑場廃止と共に地蔵は各地へ移設されるのですが、元は有松に安置されていたことから刑場も有松にあったと伝えられるようになったという訳です。
これはただの憶測にすぎませんし、残念ながら今の私には事実を確かめる術がありません。