野町から泉新村へと移った刑法場は享保の終りごろ、更に町端へと移転します。その跡地に達善法師が僧庵を建てたのが養清寺の始まりです。
刑法場の移転と達善庵の創建を年代別に並べてみました。
・享保十六年(1731)八月 刑場の移転申請に許可が下りる。(加賀藩資料第六編)
・享保十七年(1732)四月 十村役らが刑場移転に伴う納租に関し意見を上る。(加賀藩資料第六編)
・享保十八年(1733) 達善法師、柏野四ツ屋から移転 (養清寺住職談)「弥生の明日のために p49」
・元文元年(1736) (旧刑場の)跡は僧庵となりたり (三州奇談・赤蛇入亭)
・元文四年(1739) 磔場所替 (金澤古跡志)泉村肝煎伝来の書札
・元文四年二月 平井吉左衛門の家来等が主人を殺害、磔刑を言い渡される。(加賀藩資料第七編)
・元文四年七月 事件に関わった五人が泉野で磔刑、一人が梟首(加賀藩資料第七編)
養清寺と旧刑法場については「金澤古蹟志」に詳しく記載されています。
https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/reference/kosekishi/kosekishi_615.pdf
ここでは平成7年11月26日の北國新聞に載った記事をご紹介しましょう。
旧街道の寺、郊外へ、金沢市・泉地区にあった養清寺、建物老朽化で移転
金沢市泉三丁目で二百六十年以上の歴史を刻んだ養清寺(天台真盛宗)がこのほど、建物の老朽化に伴い、郊外の同市辰巳町へ移転新築した。檀家の減少による収入のめどが立たず、旧市街地での建て直しが困難になったことから、新天地を求めたが、歴史的情緒を残す旧北国街道の泉地区にぽっかりと空いた寺跡に、地域住民から今更ながら移転を惜しむ声が上がっている。
養清寺は江戸中期の享保十八年(一七三三年)、処刑場の跡地に供養のため、達善法師が達善庵を建立したのが始まりで、二代目住職の心蓮法師が文化三年(一八〇六年)に養清寺に改めた。天保六年(一八三五年)からは尼寺として布教活動が行われてきた。
しかし、長年の風雪で寺院は床がきしみ、屋根がわらの損傷も年を追うごとに激しくなり、昨年十一月には山門が取り壊された。第十五代の松平妙香住職は当初、現在地での建て直しも考えたが、檀家の減少や葬祭場の進出により葬儀もめっきり減り、収入増は見込めないことから、市街地の寺院跡地を売却し、郊外で再出発することにした。
移転を前に昨年暮れには、移転を知らせる張り紙を寺院前に掲示したものの、周辺住民のほとんどは事情を知らず、ひっそりとした移転となった。すでに辰巳町で新しい御堂がしゅん工し、年内の完成をめどに現在は参道などの整備が行われている。
●町端情緒にぽっかり穴
松平住職は「離れるのは寂しかったが、檀家ではない人に多額の寄進を求めるわけにもいかなかった」と苦しい胸の内を明かす。弥生校下に住み、石川県文化財保護審議会委員を務める小倉學さんは「養清寺は城下町金沢の町端の歴史的情緒を残し、地域住民に集会所などとして親しまれた思い出深い寺だ。移転したのは残念」と話している。 (北國新聞 平成7年11月26日 24面)
移転した養清寺は一見寺院とは思えぬ佇まいですが、入り口横には道に面して祠が立っています。
これが金澤古蹟志に「是そのさき刑法場ありし頃の地蔵堂なりといひ伝へたりとぞ。」と記された地蔵堂です。泉からそのまま運んできました。中央の子宝地蔵は先代の妙恵尼が祀ったそうです。左は延命地蔵。
敷地の右手には泉の刑場にあったとされる四体の地蔵が並んでいます。
場所や時代が移ろうとも、地蔵に込められた想いは後々にまで遺されてほしいものです。
平成三十年九月
養清寺所在地 金沢市辰巳町イ29−1